2001年 超氷河期時代 就職
超ブラック企業
僕が今の会社に入社したのは2001年超氷河期のころでしたが、面接で当時の設計部長に買われなんとか入社しました。
同期は僕を含めて5人。入ってみたら超ブラック企業。
1人辞め、2人辞め、、現在では同期も1人だけとなりました。
激務を共にした同期は家族のようなもので、現在も5人で年一回は顔を合わせています。
激動の20代
20代はまさに激動の時代で
- 1年に1つ国家資格を取得
- 24歳にして結婚
- 残業時間240時間オーバーの過重労働
- 他県への転勤
- 24時間泊まり込みの突貫工事
- 夫婦ともに追い詰められた末に離婚
- 世界的企業の親会社へ5年の出向
- 当時最高難度と言われたA社研究所を設計
- そして、二度目の結婚と長男誕生
人に任せるのはキライで、ほとんどのことを
「一人でやる」ことにこだわりました。(これは今でも変わりません)
普通の人の3倍は濃いサラリーマン時代を過ごしたため、
若くして会社に物言いするほどの「超ベテラン級」(生意気とも言う)
「出世街道」まっしぐら30代
さらに30代は
- 東日本大震災の復興事業で即東北入り
- 電気もガスもない中で1ヶ月の復興作業
- 本社に戻るとすぐに労働組合の役員に抜擢
- 第2書記長→書記長→副執行委員長
- そして、執行委員長を2年歴任
- 所属部では一部門を任され全国行脚
- 博士号に匹敵する資格「技術士」取得
- 会社からは社長賞2回
- 功績賞4回、提案賞5回受賞し、
- 将来をしょって立つ役員候補
として「出世街道」という名の一本道を、爆進していました。賞状だけはデスクの足元のダンボールに、たくさん転がっています。あふれるエネルギーは本業だけでは収まらず、
- 2015年 せどり開始
- 2016年 せどりから物販へ移行
- 2017年 情報発信開始
- 株式会社ぷぅ設立
「退職願」を会社へ提出
そして、入社18年目を迎えた2018年の春
「退職願」を会社へ提出しました。
多額に残る住宅ローン、子供2人はこれからお金がかかる。
「安定」を捨てたリスクはあまりにも大きい。
悩みに悩んだ末のこと。妻とは何度も話し合いました。実際、何度か泣かれました。
本当はもう少し実績を増やしてからと思いましたが、これまでの人生を振り返ってわかるように、未来を描いたら身体が先に動くタイプです。
妻が折れたと同時に、 2018年4月 会社へ報告しました。(部長はかなり驚いていました)
もう、やるしかない。さぁ、後がなくなりました。
「約束された出世街道」を捨てて退路を断ちました。
妻が折れたと同時に、会社へ「退職願」を出しました。退職の意向は2ヶ月かけて受理され、
退職について出る話題
2018年5月、来月末にせまった退職を前に、ちょくちょく送別会的な飲み会が
入るようになりました。
僕はお酒は好きではありますが、強くはありません。
退職について出る話題は
- 羨ましい
- うちの会社に未来はない
- あと20年この仕事を続けるのか
- 俺も若いころは、、
なんて話。愚痴ったり、口で言っているだけでは、人生を変えることはできない。一歩踏み出したのは俺、悩んで残る決断をしたのはみんな。
酔って熱くなった僕は、
「悩んで悩んでやらない」が一番のムダ
そんな話をしていました。(後悔はしていない)
激励されてるんだか、してるんだか、って飲み会になっています。そして、2018年6月末をもって、ぷぅは会社を辞めることになりました。
独立し後がない40代
18年かけて積み上げた「約束された出世街道」を捨てて退路を断つ。
物販と情報発信、そして新たなチャレンジで人生を変える。
やるしかない。
安定を捨て独立したこの先に「人生の自由」はあるのか
誰かがやるのではなく先陣を切って自分でそれを確かめます。
チャレンジさせてほしい
自分を信じてくれ