人脈を活かしてアイドル用の扇子とうちわを作る
現在、アイドル用の扇子(せんす)と団扇(うちわ)作ってます。 と言ってもアイドルオタクになったわけではなく、僕の大事なビジネス仲間がアイドルグループを作ったので、「どうにか応援できないものか?」と考えついたのが、アイドル扇子とアイドルうちわ。 正直自分のものづくりの人脈がこういうところで活かされるとは思ってなかったが、プロデューサーの了承も得られたので、さっそく超老舗の扇子メーカーに依頼のメールと電話。
扇子メーカーとのやり取り
物を売るためのモノづくりではない人のためになるモノづくり
得意のExcel技術で、「アイドルの画像」を扇子やうちわにあてはめ、パソコン画面いっぱいにアイドルの顔写真を写して編集していたら、
そのアイドルはこの子たち
2日にいっぺん動画アップされてるんだけど、これが結構面白い。 頑張れ、しおりちゃん。
栄えある?第1位は【雑談部門】 「去年辞めた会社から電話が来たよの話」でした。
では、さっそくその会社から電話が来た話を、、
3人からの電話
実は会社を辞めた後、
- 一番お世話になった先輩(45歳)
- 10年手塩にかけて育てた後輩女性(35歳)
- 入社時にもお世話になった叔父さん(67歳)
ぷぅはサラリーマン時代のぷぅ
ぷぅはサラリーマン時代「建設業の設計士」でした。 自分で言うのもなんですが、建設業の設計士というのは、100人中1~2人採用されるかどうかという非常に狭き門です。入社当時、
- 誰よりもはやく一人前に!
- そして自分で稼いでいく力を!
そんな鼻息を荒くして仕事に励む姿・・・? が当時の設計課長に買われ、晴れてその「先輩」がいる設計部門に配属。その後17年にわたり「家族以上」に長い時間を、課長や先輩と仕事をすることになります。
サラリーマン生活
ところで、「設計業」という響きは良いですが、遠方へ何度も足を運び、 泥とほこりにまみれ、発注者や現場マンにどやされながら、お金や法律の「責任」を一手に背負い昼も夜も、土日もなく働く厳しい世界。 まさに、 3K「キツイキタナイキケン」の仕事です。 17年のサラリーマン生活の中で、僕の人生も何度か転機を迎え 何人もの後輩を指導、係員から主任へ、主任から係長へ 労働組合の執行部に参画し、執行委員長を歴任。
何十億という膨大な仕事が宙に浮く
長い長いサラリーマン生活。 本当に課長とは「親子」 先輩とは「兄弟」とも言える仲でした。 それぞれの成長を見せる中、僕を拾ってくれた課長は若くして(48)ガンで他界。(その当時は部長) 「手ぐすねを引いて待っていたよ、ぷぅ」 右も左もわからない新入社員にそんな声をかけてくれた課長が亡くなる。 本当に本当に悲しい出来事でした。 が、 誰もが認める「会社のエース」であったその課長が背負っていた、何十億という膨大な仕事が宙に浮く。
出世街道にのり、課長、部長とステップアップ
その「お客様と仕事」を維持するため、僕と先輩は手分けして全国を走り回りました。 もともと抜群の仕事センスを持っていた先輩は、それらの功績もあり先輩は出世街道にのり、課長、部長とステップアップ。 そして僕は、、先輩が課長から部長になったところで、 「退職願」を会社に提出しました。 僕と先輩は【全く別の道】を進みだしました。※その頃の話はこちら
独立前の初心にかえるぷぅ
当時、サラリーマン最後の仕事〇急電鉄さんへの最後のプレゼンを無事に終えました。その後、〇急さんとの送別会。20人以上も参加してくださいました。十数年のお付き合いになるので、本当に感慨深いものがあります。
最後に 「ぷぅさんからひと言」
と言われ、会社員3年目のころドキドキしながら、初めて〇急さんの事務所を訪れたところから始まり。小さな仕事からコツコツはじめ、数千~数億の仕事も任されるようになり
成功、失敗、クレーム、大事件、人事異動
たくさんの経験と思い出が自然と口からポロポロと出てきて、同時に目からポロポロと涙が、別に泣く気なんて全然なかったのにその時々のみんなの顔と感謝の気持ちがあふれ出てきて拳をにぎりしめて
グッっとこらえなくては
声を出すことができませんでした。
リスクなんて承知の上
誰しもができないことをやる
それが自分だし、
それが自分の生き方です。
そういうと、皆さんから拍手が。〇急さん、本当にありがとうございました。この経験はムダにはしません。その後、2次会、3次会と続き朝までコース。
翌日は当然二日酔いで、ゆいちゃん(小2)にダイブされて起きました。今週はいい天気みたいですね。もうすぐ夏が来ます。独立前の初心を思い出しては、今日も奮起してるぷぅです。今年の夏は、子供たちとたくさん遊んであげよう。