9年前のサラリーマンぷぅ 復旧支援部隊として現地へ

コラム

予期せぬ震災

朝日新聞デジタルより引用

昨日は東北大震災からちょうど9年でした。 9年前のぷぅは、関東で働く現役バリバリのサラリーマンでした。たまたま娘の健診で有休をとった日、病院で大きな地震が起こりました。
1歳の息子は何が起こったか分からなくて動揺し、どうしていいかわからなくなった妻と娘を連れて病院の外へ。すぐにそばにいたタクシーを捕まえて、信号が機能しなくなった道路を走って家まで帰りました。
その後、復旧したラジオとテレビで起こったことの大きさを知ります。
仙台の父母とは連絡がとれず夜通し携帯を握りしめ、翌日、両親の無事を確認し本当に安堵しました。

被災後の葛藤と決意

ぷぅは建設業に従事していたため当然、会社ではすぐに復旧支援部隊が組織され、どんどんその人員が選別されていきます。ぷぅは正直すごく悩みました。
東北支援部隊に加われば数ヶ月行ったっきりだろう。不安がる0歳と1歳の子供と妻がいながら電気、ガス、水道もなく、原発問題も納まらない被災地に行く。
でも、「自分の仕事」が地元の役に立つ。こんな時に行動しないヤツがあるか。と、震災後3日目の朝復興支援部隊に名乗り出ました。そして、すぐに数名の社員をのせて父母の居る仙台へ車を走らせました。

被災してもなお前向きに生きる人たち

東北の支店や作業所を回って凸凹の道路を走る。海沿いの地域は口にもできない惨状。そして、一通り仙台支店の仕事の状況を聞いたあと、真夜中の真っ暗な「ぷぅの実家」へ帰宅。
懐中電灯と共に出てきた母は「息子が帰ってきた!」と嬉しそう。(こんな状況でそんな笑顔で、、)と思いましたが、

生きるために必死だった
  • 両親を亡くした友人
  • 家が倒壊した会社の仲間
  • 自宅が半分まで浸水した受付けの女性
みんなが前向きで、生きるために必死でした。毎日カップラーメンを食べ3週間後に風呂に入れる喜びを知り、5週間後にビジネスホテルを復旧させ被災者の方々をホテルへ受け入れました。

家族のもとへ

 支店長「ぷぅ、お疲れさん。子供、小さいだろう。もう家に帰っていいよ」
不思議とその頃は、東北の一体感になじんでいて(もう少し復興に従事したい)と思っていました。
しかし、「ずっと子供たちの顔を見ていないな」と思い、両親は寂しそうにしていましたが支店長の言葉に甘えて神奈川の自宅に帰ることにしました。
久しぶりの帰宅。2歳になったばかりの息子は嬉しそう。0歳の娘には「知らない人が家に入ってきたー!」と大泣きされました。           (その時の写真がコレ)

震災を乗り越えて

 9年たった今も世間はまたいろいろと騒がしいですが、両親も元気だし子供たちは、家で嫌々勉強しています。みんな平和で健康が一番。
今日の関東は快晴です。子供たちを連れてランチでも食べに行こうと思います。っと、その前に家電の発注をしとかなくちゃ。先日納品した商品があっという間に売り切れたんですよね。

ぷぅの3月の物販目標